2010/12/30

今年の3冊

R0013420 今年も新幹線出張が多く、ミステリー、時代小説、ノンフィクションと文庫小説を中心に、読みまくった。マイベストを選ぶとすれば、百田尚樹「永遠の0」、熊谷達也「氷結の森」、高橋克彦「火城」あたりか。

そのうえ歳とってきたせいか、このところ人生本も増えてきた。相変わらずのへそ曲がり系の新書も好きで、興味深かった本を一堂に集めて記念撮影。ハイ、チーズ。

さて、年末恒例、今年の三冊。小説、江戸、女流作家をキーワードに選んだ。僕は江戸時代が好きで、女性が好きだからという単純な理由で、この組み合わせの小説を好んで読む傾向がある。

宮部みゆき著「孤宿の人」新潮文庫 (2010.03.04.読了)

いつもの江戸市井物と違って、架空の海坂藩ならぬ丸海藩での、オカルト・ミステリー・人情小説。阿呆の「ほう」と名付けられた不幸な生い立ちの女の子が、江戸から遠く離れたこの四国の小藩に置き去りされるところから、この物語は動きだす。さまざまな登場人物の心の中の光と闇が、ほうの無垢な心を通すことで、際立ち浮き彫りにされていく。

小説には、謎があり、闇があり、伏線があり、著者お得意のハートウォーミングなふれあいに涙し、同時に甘さだけでなく、これも得意なある残酷さをもったストーリー展開に愕然となる。これも伏線なのだが、展開の中で「ほう」の当て字が「呆」から「方」に変わり、そして最後にまた変わる、その一文字で、読者はホッとして人情話は大団円になる。

杉本章子著「その日」文春文庫 (2010.10.22.読了)

信太郎人情始末帖の第六段。ブログに何度か書いたが、江戸のことを見てきたように詳しい杉本章子の大ファンで、読むというよりは、信太郎たちのパラレルーワールドに住んでいる感覚でこのシリーズを読んでいる。

一応こちらも謎解き仕立てなんだけれど、そんなことより人情、人情、ド人情(?)の触れ合い話。江戸の人たちは心根の良い人ばかりで、前作では美濃屋のじいさんに泣かされたが。今回はその奥方、いつも意地悪なあのばあちゃんに思いっきり泣かされました。冗談でなく、新幹線のシートで泣いてしまった作品。

このパラレルワールドは鬼平や銭形平次なんかと違って、「その日」があったとは。年表を調べて、ぐぐっとリアルに。千代太をはじめ、ここに登場する子供たちは、明治を生きることになるんだ。

鈴木由紀子著「義にあらず」幻冬舎文庫 (2010.11.26.読了)

ブームの切っ掛けとなった直江兼続とその妻お船の物語「花に背いて」を書いた鈴木由紀子が、今度は吉良上野介の妻を書いたとあっては、吉良ファンの僕が手に取らないわけはない。討ち入りの時、奥さんはどこにいたんだ。

これは、上杉家から嫁いだ妻富子と、生涯側室を持たなかった愛妻家上野介義央と、二男四女と孫の家族の物語である。そして同時に、赤穂事件がいかに忠臣蔵という虚構の物語があたかも事実のように伝えられ、赤穂浪士の善、吉良の悪というイメージが定着してしまったかが、資料を裏付けにしっかりと書かれている。賄賂も烏帽子も畳替えも塩田技術も皆大嘘のようだ。

討ち入り後の世論という怪物によって、幕府は豹変し、生き延びた養子(孫)の義周は罪人扱いの仕打ちを受け、吉良家は断絶。これも酷い話だが、奥方がずっと見てきた一族の個々の人生は、哀れ、みな命短し。これもまた江戸時代の一面なのだろう。ただ、懸命に生きるところに美しさがある。

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心優しい人物を登場させるには、現代小説ではやや不自然な感じがして、時代小説の方が似合うのだろうか。心温まる話が多い。

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2010/06/13

本ばかり読んでいる

本は妙に高揚して読む時もあるが、雑誌は心が穏やかでないと読む気がしない

と以前書いたことがあるが、このところ本ばかり読んでいるのは、やや心が穏やかでないからかもしれない。そう言いつつ、雑誌の話から入るが、先月号のTOPPOINTはなかなか刺激的だった。

「ネオ・デジタルネイテイブの誕生」の欄に、「最近の高校生は、勉強のできる生徒より、皆に好かれる生徒になりたいと思っている」とのアンケート結果が書かれていた。「皆に好かれる」というのは目的ではなく、結果ではないか。自分にとって快いかどうかという主観的基準が、はびこっているからだと指摘されている。

セネカの「生の短さについて」も載っていた。以前読んだ本である。

「最も快い生ではなく、最も善き生を追い求めよ。快楽を善き意志の先達とするのでなく同伴者とせよ」「徳は快楽を与えるのではなく。快楽をも与えるのである」

快い人生というものは、目的ではなく結果なのだ。単なる同伴者なのだと。

そして、伊与田覚著「人物を創る人間学」。人間学は「小学」「大学」「中学」から成るという。

大学はもちろん「大学」、中学は「中庸」。これは僕の手本であって、我が子たちの名前をこの辺りを出典としたぐらいだ。「小学」というのは朱子が編纂を命じた教本なのだが、残念ながら岩波文庫にも講談社学術文庫にも無く、僕が持っているのは諸橋轍次著の「中国古典名言事典」に一部載っている程度なのだ。

小学は「修己修身の学」、小学生が身に着けていなければならない人としての常識なのだ。それでありながら、教養として今の日本に一番不足しているもののようだ。

というわけで、僕の頭の旅は、「人物を創る人間学」を買って読みだすことで、さらに遠出になっていく。

清掃。本来人間は清潔を好む。清潔に対して不感症になると、歳をとってから、贈収賄など汚いことを平気でやるような人間になってしまう。だから古来より子供の時から清潔を好む心を育ててきた。小学校の掃除の時間、あれも授業だったとは。

そして、、「人物を創る人間学」を読了して、頭の旅がとうとう辿り着いてしまったのが、佐藤一斎の「言志四録」。4月に長男の入学式の祝辞で聞いてから、気になっていたが、ついに買ってしまった。

この一か月、のぞみ号の中では小説をたっぷり、夜な夜なは、この分厚い本を読んでいる。

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PS.血圧計買いましたよ。

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2009/12/31

今年の3冊 小説編

今年もダボハゼの如く、歴史小説、ミステリー、評論、ノンフィクション、エッセイ、ビジネス書と何でもありで読んだのだが、すでに7月に今年の3冊を書いてしまってあるので、特に小説に絞ってあらためて振り返ってみた。

人は物語を読むことで、他人の心の中に入って感情移入することを学ぶと瀬名秀明氏は書いているが、たった一度の人生で、読んだ小説の数だけ別の人生を体験できて、しかも他人を思いやる心まで育めるのだから、小説とはありがたいものだ。

備忘録として先ずは惜しくも漏れた次点の本を書いておくが、熊谷達也「七夕しぐれ」、北村薫「リセット」、オブライエン「世界のすべての七月」、蜂谷涼「雪えくぼ」というところか。じゃぁこれらが以下の三冊より劣っているのか、面白くないのかといえばそうではなくて、先日の写真と同じで、多分僕の内面がこの3冊と上手く出会ったということなんだろう。

矢作俊彦著「悲劇週間」文春文庫

詩人堀口大學を主人公に、明治という時代のメキシコを舞台に、革命の只中での自立と恋の物語。7月も書いたが、「たとえ冬の蓄えがなくとも、キリギリスには夏の想い出があるのではないか」という一文が印象深い。仕事の移動時間でも、現実をはるかに離れた世界に入り込み、こんなロマンチックな男の人生を体験できるのだから、読書は楽しい。

恋に長けて若き大學を翻弄する魅力たっぷりの美少女フエセラに、読んでいるだけで恋をしてしまいそうだ。

もして手折られる前に摘めというお言葉であるなら、今、同じ屋根の下に咲いているのである、その花は。
ああ、「恋人」という言葉にどれほどの意味があっただろう、そのころの僕に。
amantの訳語という以外、いったいどれほどの。
やまと詞(ことば)になって十年ほど、今だ詩には詠めても面と向かって口にする言葉ではなかった。

江國香織著「間宮兄弟」小学館文庫

映画を先に観た、ベイスターズファンの兄弟の話だというのが耳に入ったので。ほのぼのと幸せ気分になれたいい映画だったから、原作も読んでみた。

「たみおのしあわせ」という映画もだが、つい我が家族と重ねてしまう。女性にモテなくても、あんなふうに兄弟仲良く、楽しそうに生きていってくれれば、父は安心して先立てる。

女性は彼らをどう思うのだろうか。

キモイという言葉を発する人を僕は軽蔑する。思っても口にするべきでない、思いやりがないというのとは少し違う。人を嫌悪しても良い、ただ嫌悪するのに、気持ち悪いというジコチュウな価値観を使うことが許せない。人を慈しむ心を持っていない証拠だ。

夕美が微笑む。徹信がつねづね「尻の青いガキ」と表現している女にしては、それは随分とやわらかくやさしい、慈愛にみちた微笑だった。

間宮兄弟は、女性にとって恋愛対象ではないかもしれないが、慈愛に包まれて幸せに暮らしている。願わくば、恋も成就する、そんな世間であってほしい。

藤沢周平著「漆の実のみのる国」文春文庫

切っ掛けは愛娘の遠藤展子さんの「父・藤沢周平との暮し」を読んだことだった。この本は自然体の流れるような語りで、父親の思い出を綴っているのだが、父を思う心とともに、行間から父の娘への思いが見事に伝わってくる。普通が一番という周平氏の信条を知って、ますます彼の作品を読みたいと思った。

「漆の実のみのる国」は彼の遺作であり、最後の6枚を仕上げるエピソードがこの本に書かれていて、そこに向かって読み進めていった。

上杉鷹山の物話である。藤沢周平の真骨頂は「橋ものがたり」に代表される市井人情話であるが、新井白石を描いた「市塵」などの歴史小説も、数は少ないが、これがまた良いのだ。

米沢藩は貧窮に喘いでいる。放胆な竹俣当綱、緻密な莅戸善政らを従えて藩主治憲(後の鷹山)は藩政改革を進めていく。次々と起こる難題にたち立ち向かう施策を丁寧に淡々と書き綴ってあるあたりは、ビジネス小説の趣きすらある。

この国は小さく身をかがめたままで亡ぶのか

停滞する今こそ、読まれるべき忍耐の書である。

打つ手も虚しく、襲ってくる大凶作。

――天よ
と、治憲は思った。いつまでわれらをくるしめるつもりですか。治憲の問いかけに天は答えなかった。くらくおし黙ったまま、ゆっくりと動いていた。

腹心が次々と去っていく孤独のなかで、為政者は民を飢饉から守らなければならない。あきらめず力を絞ってあらゆる手を打たねばならないと、治憲は決意する。

藩の困窮を救う為に植えられた漆の木。十年かけて漆の実が稔るまでと、堪えてきたのだが、そこにも誤算が生じてきた。鷹山が思い描いていた希望の実は、実際にははるかに小さな実だった。

鷹山は微笑した。若かったとおのれをふり返ったのである。漆の実は枝頭につく総のようなもの、こまかな実に過ぎないのを見たおどろきがその中にふくまれていた。(完)

最後の原稿はそう締めくくられている。鷹山の、そして藤沢周平の充実感が伝わってきた。

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この三冊から感じるキーワードは、「ときめく」「慈しむ」「堪える」
これは七月のそれとよく似ている。
今の僕の内面なのだろう。

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2009/12/14

お楽しみはこれからだ

相変わらず咳と頭痛が収まらずどこか重苦しかったり、ボーナスが出てちょっぴり浮き立つこともあった、そんな週のウィークエンド日記。

金曜の夜は、お一人さまでオペラ「エフゲニー・オネーギン」を観る。以前も有った気がするが、のど飴を頬張りながらの咳との闘い鑑賞。もともとチャイコフスキー好きだから若干の予備知識は有ったが、想像以上に良かった。オペラというと絢爛豪華なイメージがあるが、こういう渋い人間劇もあるのだと発見した。

良い作品に巡り会い、いつもなら幸せ気分に浸るところなのだが、落ち込んでいる日々では、そうはならないらしく、この発見を伝える相手がいないことが妙に寂しく感じてしまった。渋谷からの帰路は、一人遊びの孤独が沁みる、寒い寒い道のりだった。

翌土曜は朝から卓球。ママサンたちの「おはよう」の挨拶に、少し孤独感が癒されるから、単純なものだ。午後はサイクリング。忠臣蔵の吉良邸跡で催されている元禄市に行く。毎年のようにブログに書くが、僕とっては討ち入りが過ぎると年の瀬になる。

その後、錦糸町の魚寅まで自転車を進め、夕食の買出し。さわらの味噌煮に挑戦。上手くいって子供達に褒められる。ちょっと元気が出る。

日曜は年越し準備。いつもと同じカレンダー・手帳を買い、年越し蕎麦とおせち予約。ボーナス配分に頭を巡らす。若干、物欲がでてきて、ついにアレを買う決心。その予約もする。

夜はこのところの我が家の恒例パターンになっている、NHKドラマ「坂の上の雲」を観る。このテレビのおかげで日曜も外食なし、僕の手料理が続く。今夜はチキンのグリルとスパゲッティ。

「坂の上の雲」は、高校三年生の時に読んだので、うろ覚えだけれど、日清日露とこれかららどんどん面白くなる。本当は司馬作品なら「翔ぶが如く」あたりの重厚な奴が好みなんだけれど、一番元気になるのが「坂の上の雲」だから、今の日本人にも、僕が読んだ頃と同じ年頃の子供達にも、そしてちょっぴり元気のない僕にも、ちょうどいい。

それから、もうひとつ、

「悩んだときに元気が出るスヌーピー」を読んだ。

子供の頃、「サザエさん」なんかと比べて、「ピーナッツ」はちっとも面白くないと思っていたけれど、こんなに奥深い漫画だったとは。名言が幾つも出てくる。

配られたトランプで勝負するっきゃないのさ

人生その通り。配られるカードに文句を言っても始まらない。運も不運も、そして孤独も。まさか、スヌーピーに教わるとは。

なんかこの週末に元気の階段を数段昇って、あらためて手帳のスケジュールをみたら、年末年始の予定がぎっしり。忘年会あり、京都と姫路の出張も、子供たちとの外出も、卓球もテニスも、お一人さま鑑賞も、

それにアレを買うことにしたし。

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お楽しみはこれからだ

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2009/10/30

晴読雨読

筒香でしたね。長崎や山下大の時からドキドキとラジオで聞いていたぐらいのドラフト好きの僕が、今年の会議が今日だと言うことをすっかり忘れていたほど、重圧のかかった数日間だった。

いきなり送られてきた研修用の課題図書3冊。この分厚さを10日間で読んで感想文を書けと言う。

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通勤時も就寝時も
晴れの日も雨の日も
出張の行きも帰りも
そして、ひとり酒の最中も

とにかく読みまくった。
そして、本日読了。感想文も書いた。

課題図書だけあって内容は結構面白いのだが、やはり押し付けられた読書は好きではない。

今夜からまた、読みかけの藤沢周平が読める。読書の秋、只中。

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2009/07/26

道しるべの3冊

ブログの更新を疎かにしている間にも、本や映画に刺激されて、様々な思いが浮かんでは消え、浮かんでは消えていた。アウトプットが無いぶん、貴重なインプットの時間だったのかもしれない。

ここ数年、年末に「今年の3冊」なんて記事をアップしてきたが、今年はまだ一年の半ばだというのに、既に紹介したい本が3冊揃ってしまった。四十どころか五十を過ぎても、まだ大いに迷う人生なのだが、ちょっと心が鍛えてられて、道しるべとなるような本に出会えたのだ。

堀口大學著「季節と詩心」講談社文芸文庫 (2009.02.11.読了)

切っ掛けは堀口大學を主人公にした青春小説「悲劇週間」(矢作俊彦著)を読んだことからだった。この本の帯にあるような「恋と詩と革命のめくるめく世界」にすっかり浸ってしまった。そのなかにあった一文

「蟻とキリギリス」の寓話では、キリギリスを贔屓して憚るところがなかった。キリギリスがなぜ悪いのか、たとえ冬の蓄えがなくともキリギリスには夏の想い出があるのではないか。

これが、矢作氏の言葉なのか、堀口氏の言葉なのか。堀口大學という名はルパンの訳者として知っているくらいだったのだが、もっと知りたくて、堀口氏の著書に手を出し始めた。

「季節と詩心」は、悲劇週間の舞台であるメキシコ時代より少し下ったスペイン、ブラジル時代から二十年間ほどの随筆をまとめた本で、裏表紙の「詩の子、恋の子、旅する子の面目躍如たる第一随想集」という言葉通り、海外暮らし、詩、映画、そして女性、どれを読んでも、「あぁ、男でもこんなにロマンチックに生きていいのだ」と何か嬉しくなった。

そして、当然のように、詩に対して、訳詩に対しての詩人の厳しさも書かれてある。

水は百度の熱で沸騰する。九十九度の熱では何年間おいても沸騰しない。詩もまた水の如きものである。僅かに一度の差によって、詩となり非詩となる。

訳詩というのも、決して簡単ではなく、日本語の葛藤が凄まじいものだと知った。詩歌を作り出す時間を想像すれば、今までいかに安易に読み進めていたか反省した。

そんなわけで、訳詩集「月下の一群」をしばらく鞄に忍ばせたりして、この春先は猫の如く、恋でもしようかと発情していた。

村上陽一郎著「あらためて教養とは」新潮文庫 (2009.04.21.読了)

85年に放送大学が開校した時、僕は真っ先に入学したのだが、そのいの一番で選んだ授業が村上先生の「物理科学史」だった。本屋で懐かしい名前が目に入り手に取った。

東大教養学部名誉教授の手によるギリシャ・ローマから現代に至る教養史であるのだが、あとがきで、「学問の場合は自分というものをかなりな程度、客観性のオブラートに包んで提供するのだが、この本の場合は意図的に自分を語ろうと心がけた」とあるように、今の日本人、特に若者に対して、教養の無さを怒っている。85年当時、テレビ画面を通じて見たまだ40代の村上先生は、穏やかな語り口の知的でセンスのよい先生というイメージであったが、オブラートの中はこんな頑固な方だったのかと思い知らされた。

あらためて教養とは何か、

揺るがない自分を造り上げるという意味です。あるいは、自分に対して則を課し、その則の下で行動できるだけの力をつけると言い換えてもいいかもしれません。このことは、身につけた知識の量とは関係ありません。

人間は確かに自由なんだけれど、何もかもしたければする、権利はすべて行使する、というのではなくて、自然や社会の一員であることを自覚して、「やりたいけど、やらないでおきましょう」という枠を自分の中に築き上げることが必要だと説く。生物はその枠が生理的に決まっている。人間だけは自分の力でその枠を自分の中に作らなければいけない。そうでないと「何でもあり」になってしまう。

私にとって教養という言葉の持っているぎりぎりのものは、人間としてのモラルです。教養という言葉を揶揄するときの常套句に「理性と教養が邪魔をして」というのがありますね。でも、慎みを忘れそうになったときに、「理性」と「教養」とかが邪魔をしてくれなければ、それは人間じゃない、とさえ言えるのです。

慎み。分を弁える。やせがまん。みっともない。どこかモヤモヤとしていたが、やはりこういった言葉は大切なんだと、村上先生にあらためて教えて貰った。

一生かけて自分を造り上げていくことにいそしんでいる、邁進している、それを日常、実現しようと努力している人を、われわれは教養のある人というのではないか、そう私は思っています。

中沢新一・波多野一郎著「イカの哲学」集英社新書(2009.07.02.読了)

本屋で平積みではなく、書棚の本の背表紙を端からひとつひとつ読みながら物色できるのは、贅沢なひと時なのだが、そんな時は如何にも売らんかなという書名ではなく、何が書いてあるかちょっと想像できない題名の本を手にすることが多い。

この「イカの哲学」を取り出した時も、まさにそんな感じだった。1965年に波多野氏が私家出版した「イカの哲学」という思想書を、以前から注目していた中沢氏が今こそ世に問う時と掲載し、より深い論理展開を加えた本である。

グンゼの御曹司に生まれ育った波多野氏は、特攻隊出撃をわずか数時間の差で生き残り、シベリアでの4年間の強制労働を経て帰国したのち、アメリカ留学をした。死と向きあった自分の体験は何だったのだろうかと思い悩む中、その留学中の学費稼ぎのための漁港でのアルバイトで、水揚げされた何万匹というイカの箱詰め作業をしていたある日、突如としてその答えが閃いたのであった。

その時、床の上で死んでいるイカ達も又、うらめしそうな顔つきで大助君を見つめているではありませんか。。。もし、彼等、イカ達が人間共にしゃべることができたら、何というだろう。

大助の空想の中で、イカ達は大助に向ってしゃべりはじめました。「俺達の存在に一体、何の意味があるのだい?」

一回の投網によって数万のイカに死をもたらすのは原爆と同じだ。まったく同じ状況が人間界でも起こったのだ。戦争はお互いの実存の相互理解の欠如から起きるのだ。

大切なことは実存を知り、且つ、感じるということだ。たとえ、それが一疋のイカの如くつまらぬ存在であろうとも、その小さな生あるものの実存を感知するということが大事なことなのだ。この事を発展させると、遠い距離にある異国に住む人の実存を知覚するという道に達するに相違ないのだ。

そして、単なるヒューマニズムには戦争を喰い止めるだけの力が無く、人間以外の生物の生命に対しても敬意を持つことが重要なのだと説いている。

これを受けた中沢氏の解説に入ると一気に難しくなってきて、これから書き出す内容にあまり自信が無いのだか、、

人類の心が作り出す物には二つの側面があって、ひとつは自己と非自己とを見分けて非連続な個体としての自分を維持しようとする、言葉や社会のしくみを通じて保たれる平常態。もうひとつは、生殖などの個性体を壊してまでも連続性を自分の中に引き入れようとするエロティシズム態で、この時に生のなかに死の侵入が起こる。芸術、宗教、そして戦争もここから発生した知性的な原理なのだ。

我々はイカの実在を見出したとたん、イカも自分とまったく同じ心を持った存在であることがはっきりと見え、エロティシズム態の知性によって、直感的にイカと自分との間に連続性を作り上げようとする。(???)

丁寧に書こうとすると、どんどん長くなる。

古代の狩猟と違って、イカをモノとして見る近代漁法の延長線上に、人をモノとしてしか考えない現代の戦争がある。一見逆に思えるが、世界を物象化する考え方よりも、エロティシズム態の知性の方が、認知考古学的には人類の徴であるのだ。(???)

生命の深みで戦争と平和を考えることが重要で、エコロジーも直接的にここにつながってくる。

だから、近代になって人間は自然との全面的な戦争状態に入ってしまった。。。自分が開発や搾取の対象としている相手が、自分と同じ実存であることを忘れるとき、そこには無慈悲が支配する戦場とよく似た絶望が広がっていく。この状況をヒューマニズムによっては越えることができない。人間ばかりか非人間の中に実在をみいだすことのできる直観に裏打ちされた思想だけが、そのような戦場の拡大をくい止める力を持つことができる。

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読書で得た道しるべが3つ

  もっとロマンチックに生きよう

  しっかり痩せ我慢をしよう

  生きとし生けるものの心を感じよう

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2009/03/29

雑誌ざんまい

パソコンが治って、昨夜に引取ってきた。

100_4301これで、いつも通りの暮らしに戻れるわけだが、久しぶりにmyパソコンのない日々を送り、新しい気づきもあったので、修理代1万9千円もそれほど無駄なものではなかったようだ。

普段、パソコンでブログを書いたり、メールをしたりもしているが、実は圧倒的に読んでいる時間の方が長い。ニュースを読んだり、Google検索を繰り返して、情報を手に入れている。これが暫くできなかったのだが、代わりに増えてきたのが、当然のように雑誌を読む時間だった。

本は妙に高揚して読む時もあるが、雑誌は心が穏やかでないと読む気がしないのは、僕だけだろうか。だから、雑誌を読むことができる、そんな時間を僕は大切にしている。それが増えたというのは、パソコンのない生活のおかげだった。

そんなことを考えているうちに、改めて読んでいる雑誌を整理してみる気になった。

僕は忙しない週刊誌というものをほとんど読まない。月刊誌、季刊誌を時間をかけて読む。小学館の「めばえ」「よいこ」「幼稚園」「小学何年生」と読んできた流れを、気づいたら五十過ぎまで続けているようだ。

記事によっては不定期に他の雑誌も買うが、ここ数年、毎号欠かさず読んでいる雑誌を集めてみたら、写真の6誌になった。

右下からぐるっと順番に説明すると、

「選択」: 政治・経済・国際問題の情報誌。新聞記者が匿名で、日々の記事を分析・整理して、新聞では書けない本音も書き加えている。

「TOPPOINT」: ビジネス本を中心とした本の紹介誌。新刊書を10冊ほど選んで要約を3ページにまとめてある。これで読んだ気になっている。

「ナショナル ジオグラフィック」: 言わずと知れた世界地理雑誌。大自然、動植物、生活、環境問題。驚異的な写真を見て、現実逃避をしている。

「BayStars」: このなかでも一番古く、「横浜大洋」という雑誌名だった時から定期購読している。とにかく、スポーツ新聞にほとんど取り上げてもらえない球団だから、情報はここから取る。この4月号の表紙を飾っているグリンのインタービュー記事だって8ページもある。

「芸術新潮」: 特集記事だけでなく、コラムを読みながら、幅広くアートの世界を学んでいる。芸術は本来右脳で感じるものなのだろうが、左脳も働けば、より深く鑑賞することができる。

「考える人」: このなかで唯一の季刊誌。そして唯一、創刊号から捨てないで保存してある雑誌。雑誌名の横に「plain living & high thinking」とある。シンプルな暮らしのなかで思索するということか。そんなことを憧れながら読んでいる。

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よく大人のナントカというデート用雑誌もあるが、僕がファッションやグルメに全く興味がないことがバレる。(そうか、痩我慢ブログの訪問者は、そんな記事がないので、百も承知か)

この雑誌ポートフォリオから、他人がオブという人間を読むこともできるだろう。おもわぬ内面告白となってしまったか。

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2008/12/30

今年の3冊、へそ曲がり

5月以降、隔週以上のペースで関西出張があって、車中6時間以上の読書タイムを楽しんだので、今年は例年の倍ぐらいの本を読んだ。

100_3921読書控えから高評価の本をリストアップし、今年の3冊を決めようと思うのだが、甲乙つけ難い。 芥川比呂志「ハムレット役者」、瀬名秀明「デカルトの密室」、奥野良之助「金沢城のヒキガエル」あたりか。でも、逢坂剛の西部劇続編も、帰ってきた探偵沢崎も面白かったし。満足した本はたくさんある。思い切ってがっかり本にしようかなんて、考えているうちに閃いた。

そうそう、オブらしくへそ曲がり本にしよう。移動中は文庫小説が多いのだが、就寝前には、ちょっと考える本を読む。エッセーや新書系が多いが、その中からへそ曲がり度で選んでみた。

というわけで、「へそ曲がり本、今年の三冊」発表。

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清水真木著「友情を疑う」(中公新書)

友人たちは、自分の恥を晒すようなことがあっても、たがいに何でも打ち明けることができなければならないとルソーは主張する。・・・友人に対して秘密を持つことは・・・許されないことですらある。(P.139)

昔から僕には親友がいないと思っていた。「一年生になったら友だち百人できるかな」という重圧。会社の同僚もスポーツ仲間も共通の戦う相手を持つ戦友の部類なんだと思う。

そのうえ、妻が病気になった時、友に弱みを見せたくなくて、誰にも相談しないで、それまでどおりの付き合いを続けた。その秘密が妻の死で明らかになった時、どの面をさげて彼らと付きあえるのかと思った。友を失ったと思った。いや、僕の方が友達扱いしなかったのだ。

「友人」や「友情」という言葉は、あまりにも無造作に使われてきた。・・・歌わられ、讃えられ、誓われるばかりで、・・・言葉の使い方が慎重に吟味されること、つまり、友人や友情が「疑い」の目でもって眺められることはほとんどなかったのである。誰を「友人」と呼べばよいのかわからなくなり、結局、「友人」や「友情」という言葉を使えなくなってしまった人は少なくないに違いない。(P.190)

本の中で、哲学者たちの友情論を吟味していく。「友人のためなら何をしても許されるのか」と問うキケロ。「友情とは一つの取引にすぎない」というラ・ロシェフーコー。「友情とは不幸なものたちが互いに抱く憐れみである」というルソー。その後、著者は、善意をあてにせざる得ない友人を持っていなくても、幸せな生活を享受できる社会を人間らしい社会とし、「友人たちよ、友人などいないのだ」というアリストテレスの遺言に帰着する。

友情について、たくさん考え、少し楽になれた本。

中島義道著「私の嫌いな10の人びと」(新潮文庫)

中島義道氏は、大好きな、いや最も尊敬する著者の一人である。こんなふうに知的に頑固に生きられたらと憧れるが、絶対無理なのも分っていて、著書を読むことで叱咤激励を貰っている。

著者の嫌いな人、10人。笑顔の絶えない人、常に感謝の気持ちを忘れない人、自分の仕事に「誇り」をもっている人、いつも前向きに生きている人、「わが人生に悔いはない」と思っている人、、、、現代日本人が好きな人たち。そんな「いいひと」に出会うと不愉快でたまらないという。

それはさしあたり物事をよく感じない人、よく考えない人ということができます。・・・世間の考え方に無批判的に従っているような人は嫌いだということ。・・・さらに説明しますと、感受性において、思考において怠惰であって、勤勉で出ない人、・・・他人の感受性を漫然と自分と同じようなものと決め込んで、それに何の疑いももっていない人、他人が望んでいるかを正確に見極めずに、「こうだ」と思い込んでしまう人です。(P.234)

多数派の価値観を振りかざして、少数派の感受性を踏みにじる鈍感さがたまらないという。

「みんなの喜ぶ顔が見たい人」とは、マジョリティ(多数派)の喜ぶ顔だけが見えて、マイノリティ(少数派)の苦しむ顔が見えない人なのです。(P.65)

登場する「いい人」は、みな僕にも思い当たる。自分の鈍感さを思い知らされるが、また、自分が少数派で有る部分においては、ほっとさせられる本でも有る。

僕は感謝を伝える言葉がうまく出ない、特に親兄弟とか友人とか親しい人ほど。皆ほんとうにお礼の言葉が上手だなと、劣等感と罪悪感のなかで思っていた。

たとえ、私が誰かから絶大な恩恵を受けようとも、私は彼(女)に、いつまでも「ありがたかった、助かった」と言いつづけたくない。そして私は・・・他人からいつまでも「ありがとう(ございました)」と言ってもらいたくない。すぐに忘れてくれるほうが、ありがたいのです。(P.29)

同感です。自分が少数派の立場になると良くわかる。癒されて、そして自分の無神経さに思い悩む本。

箭内道彦著「サラリーマン合気道」幻冬舎

サラリーマン合気道。
やりたいことなんて何もない。
流されるからこそ遠くにいけるのです。

著者は「きっかけはフジテレビ」のCMを作ったクリエーター。仕事の極意本だが、「みんなと同じを恥じない」、「積極的に緊張する」、「大いに抜け駆けをする」、「失敗を具体的に怖がる」、「イエスマンになる」、「ルールと制約を歓迎する」、「プライドや個性を進んで捨てる」などなど、立派なへそ曲がり本である。

型にはまらないと型は破れない。
プライドや個性を進んで捨てることによって、新たな自分、思いがけないことを発見できる。

「自分はこうだ」という個性やこだわりを捨てて、合気道の基本の「脱力」状態を保ち、仕事相手やその場の空気を自分の力に変えて、実力以上の成果をだす。著者はこれを「サラリーマン合気道」と呼ぶ。

ブレない自分を大事にするあまり、ひとつの価値観にこだわり過ぎていると、リアルタイムに動いている世界から置き去りにされてしまう危険性もある。時代の流れやその瞬間の事象に、思い切って素直に身を任せてこそ、初めて自分だけの力ではできないことを成し遂げられるのではないでしょうか。

新しい職場に移った僕の気負いを、じんわりと取ってくれた本だった。

以上、今年の3冊、へそ曲がり編。

へそ曲がり本というのは、常識人をやめても良いのだよと諭してくれる、癒し本だと思う。「失敗してもいいんだよ」の相田みつをも、詳しくは知らないが「左の頬を差し出す」聖書も、へそ曲がり本の一つではないか。

ただし、へそ曲がり本は心地良い癒しの先に、深い深い思索の谷があり、難しく悩んでいるうちに、スースーと眠りに落ちてしまう。だから寝室で読むと決めている。

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2008/12/24

サンタになれないクリスマス

次男が意味ありげな顔で言ってきた。

「今年はサンタにXBOXでも頼もうかな」
「サンタが来るのは中学までだぞ、お兄ちゃんもそうだっただろう。残念だな。」

今夜、我が家にはサンタが来ない。

妻が亡くなって一か月後、混乱の中でクリスマスを迎えた。意地になって、いつもどおりのクリスマスを装った。何処に仕舞ってあるかわからないツリーを探し出し真夜中に飾り付けた。プレゼントの買出しも、いっぱいいっぱいだったので、当時高1の長男はもういいだろうと考え、サンタは中学までというオブ家のルールを決めた。

たしか長男が生まれた年からサンタが来たから、20年以上も続いたのだが、今年からサンタが来ることはない。子育て儀式がまた一つ終わり少し寂しい。僕にサンタが来なくなったのは中学生だったと思うが、親も同じ思いをしたのだろうか。そんなこと考えたこともなかった。

想像力が足りない。

本日、新幹線の中で、瀬名秀明の「第九の日」読了。前作の「デカルトの密室」は、そのテーマのあまりの深さに、楽しむというより格闘しながら読んだ。その続編。ロボットが心を持つことで、人とは何か、心とは何かが、見えてくる。

「ぼくたち人間だって最初から視点を自由に操れるわけじゃない。経験や物語を通して少しずつ学んでゆくんだ。大人になってもうまく視点を操れない人はたくさんいる。いいかい、人間にとって他人の心に中に入り込んで感情移入する能力も大切だ。でも一方ぼくたちには、全体を見下ろして、すべてをお芝居のように、システムとして捉える能力も不可欠なんだ。」

視点を切り替えて、相手の心を思いやる、想像力を働かす。今年は新幹線の中で、たくさんの物語を読んできたが、少しは僕も優しくなれたのだろうか。

ンタになれないクリスマス。

想像すれば、世間の親が皆越えてきた、どうってことのない一里塚なのだろうに、なぜこんなに感傷的になるのだろう。

想像してもらうと、イブのこの時間に書き込んでいるということは、息子二人は外出中。パッと陽気なイブを求めているわけではないが、この一里塚をしみじみと妻と噛みしめて、乾杯でもしたかった。

すこし心が寒がっているのか。
冬だから仕方がないか。

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2008/07/18

『シンプリシティの法則』

オブの本棚⑯

Simplicity_4 『シンプリシティの法則』
著者:ジョン・マエダ
    鬼沢 忍訳
発行:東洋経済新報社
(2008.06.27.読了)

テクノロジーのおかげで、私たちの生活はますます満たされるようになった。だが不快なものに「満たされる」ようにもなった。

人びとは生活をシンプルにしてくれるデザインを買うだけではない。さらに重要なことに、愛しているのだ。

MITメディアラボ教授にしてグラフィックデザイナーのジョンマエダ氏による、デザイン、テクノロジー、ビジネス、人生におけるシンプリシティ実現の為の法則集。

100ページという短さで、10の法則と3つの鍵に分けて簡潔にまとめられているのだが、いや~難しいというか、奥深いというか、、、、珍しく二度三度と読み返してしまった。これは安易なハウツー本ではない。シンプルに生きる為のヒント集であり、哲学書である。

シンプリシティを実現する最もシンプルな方法は、考え抜かれた削減を通じで手に入る。

バブル華やかりし頃、職場のOLたちが、お酒だダンスだスキーだテニスだサーフィンだ、さらに競馬、歌舞伎、相撲うんぬんと限りなく多くの趣味に首をつっこみ出した時に、鼻の下を伸ばしてそれに付いて回った僕は、酔うと彼女達に「人生は引き算だぞ、何をやらないかだ」とお説教したものだった。

今でもそう思っている。限りある人生、何をしないか。欲張らない人生、これがシンプルライフだと思う。著者も法則の一番に「削減」を持ってきている。しかも考え抜かれた「削減」。我が意を得たりなのだが、ここから先が目からウロコだった。

シンプルを実現するのは「削減」だけではなかった。隠蔽も組織化も知識も感情も信頼も物事をシンプルにするという。さらに、シンプリシティとコンプレクシティはたがいを必要としている。また、決してシンプルにできないこともある。うーん、「シンプル」はそんなに単純ではない、奥深い。

シンプルに暮らしたい。触発されて、読了後もグルグルグルグルと考えが廻る。直ぐには答えは出ない。じっくり少しずつ考えていけばよい。

そのうえ本の中には、法則以外にも「これは」と思う言葉がちりばめられている。ちょっと抜粋してみよう。

目を細めて世界を見ることだ。見るものを減らすことによって、わかることが増えるのである。

報酬は成長だった。私たちは年をとるにつれて、このシンプルだが大切なモチベーションを忘れがちである。

あなたの全人生がたった1つの骨董品の棚にまで切り詰められるとしたら、どんな思い出を安置するだろうか。人生とは複雑なものかもしれない。だが最後には、マークの言葉に耳を傾ければ、人生とは単純なものなのだ。

不安が大きすぎれば、成長はない。失敗を恐れて動けないから。
一方、まったく不安がなければ、この場合も成長がない。うぬぼれが強すぎて、自分の失敗を認められないから。

そして、へそ曲がりが一番心に残った言葉、、、

背をもたれてリラックスしよう

南海の楽園も、足裏マッサージも、一流演奏家のコンサートも、癒し系の彼女も不要。リラックスとはだた背をもたれること。心地よい椅子があればいい。

シンプルとはこういうことなのだ。

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